2011年6月30日木曜日

そして再び気仙沼。

ちょっと時間がたってしまいましたが、
6月の半ばに、また気仙沼へ行ってまいりました。

2ヶ月ぶりに訪れた気仙沼は、
瓦礫の撤去が進んでいたり、
仮設住宅が出来ていたり、
ギチギチだった避難所も大分人が減ったり。
病院や薬局も営業を開始していたり。
随分、復興が進んでいる様子も見受けられました。

しかし、瓦礫の撤去はしたけれどその先どうするのかという土地や、
瓦礫の撤去すら進んでいない小集落も有ったりで、
まだまだ、本格的な復興には時間がかかりそうです。

福島も大変なんですが、津波の被災地も大変なんですよね。

津波の被災者達は、商売道具まで失ってしまっているので、
どう、労働条件を整えていくのかといった課題もあるようです。

阪神淡路の時も中越地震の時も完全な復興には時間がかかりました。
ましてや、今回の被災範囲はあまりにも広大です。
本当に長期の支援が必要です。
福島も含めてですが、それを支えていく覚悟が求められます。

2011年5月14日土曜日

陸前高田へ

先週末から五日ほど、また北へ行ってきました。
気仙沼の隣の港町。陸前高田。
自分自身は前から良く使っていた醤油屋さんのあった町。



ついつい気仙沼と比較してしまいますが、
町の規模のせいなのか、復旧作業は後手後手の印象。
水源が津波にやられたとのことで、水道の復旧が始まったばかりでした。


前回行った三月末と比べれば、気温も大分過ごしやすくなっており、
風邪症状の方も少ないとのこと。
ただ、被災地から立ち上がる埃のせいか、
喉がいがらっぽく、咳がひどいと言った方も多くの見受けられました。
前回の気仙沼ではほぼ、高台にあった K-ウェイブ での作業でしたが、
今回は、どちらかというと小さな集落の公民館。
避難所と言っても、ご近所さんというか、ほぼ一族の集まりなので、
なんだかのんびりしていて、田舎に遊びに行ったような錯覚を覚えました。
しかし、被災地であることには代わりはなく、
商業施設や医療機関はほとんど復旧しておらず、
臨時の施設で繋いでいる状態。
大きな避難所には物資が豊富にあるが、
小さな避難所の中には援助物資もそれほど届いていない場合も有る。
津波の被害を直接受けていなくても、社会インフラが壊滅したので、
生活物資が手に入り辛い状態にある集落も。
そうした市街地の殆どを津波で持っていかれた状態は、
復興までに相当の時間がかかることを予想させます。
災害支援の規模は今後縮小されることが予想されますが、
まだまだ、現場は復興には程遠い現状です。
その中でも、被災者自身の自立を促しつつ、
復興に繋げていくロードマップの作成がまたれます。

2011年4月4日月曜日

気仙沼へ


先週、自分の職能関係で気仙沼へヘルプに入った。
津波で市街地が壊滅状態と聞いていたし、
東北自動車道を走っていても、
福島県ぐらいから路面が
歪んでいる場所が有ったりで、
「これはアクセス道路も大変なことになっているかも」
と思っていた。
ところが、一関から国道284号を利用して気仙沼へ向かったのだが、
思いの外、被害が目立たない。
所々で道路の一部が陥没していたり、家の壁が崩れたり、
車のショールームのガラスが割れていたり。
そのくらいは見かけたが、潰れている家などは見かけなかった。

気仙沼での宿泊地も高台の新興住宅地で、
ヘルプに入った場所も高台。
着いてからは業務をこなすのにかかりきりだったのと、
宿泊先に迷惑をかけるわけには行かなかったので、
宿泊地と業務を行った場所との往復しかせず、
帰途に着くまでに目に触れたのは、
グラウンドに集められた大量の瓦礫と、
体育館に身を寄せていた避難者と自衛隊ぐらい。

もちろん宿泊でお世話になった方々から色々とお話を伺ったりしたが、
余りピンと来ないまま業務終了となった。
帰路は、宿泊先でお世話になった方から、
「是非海岸沿いを通って見ていって」
と言われ、
国道45号を本吉まで出てそこから内陸に走って帰ることになった。
その後見た光景は、そのままテレビで見た光景。
津波で流されて瓦礫と化した住宅地と、
その隣には、ほんの数メートル高台に有ったおかげで難を逃れた建物が。
実際に現地に入ったのが、震災から3週間が経とうとしていた頃であり、
津波の被害を受けなかった地区では既に経済活動が始まっていた。
もちろん、家を失った人たちはたくさんいて、
復興をどう進めていくのか検討もつかないが、
そうした中でも、前に進んでいく意思を感じることはできた。

今回の震災で特に困ったと聞いたのは、通信インフラの断絶。
自分が訪れたときにはまだ固定電話は回復していなかった。
地震の直後はドコモの回線だけが生き残っていたが、
基地局のバッテリーがダウンし使えなくなり、
その後は au がまず復旧し、
その後ドコモと au は通信圏の拡大競争をするかのように復旧。
しかし、ソフトバンクは2週間たっても全く復旧せず。
なんとか三週目に入ってから一部復旧。
自分より先に現地に入っていた人たちの中のソフトバンクユーザーの中には、
情報の収集ができない可能性があると、
慌ててドコモや au と契約した方もいた。
現在では情報収集しないと業務を遂行できないこともままある。
自分は iphone を使用しているので、
日本では必然的にソフトバンクユーザーとなる。
都内に住んでいるので、普段は特に問題になるようなことは少ないが、
地方に行くと全く使いものにならない場所があるのでかなり困り物。
岩手県の盛岡から宮古へ向かう道のバスに乗ったときは、
ほとんどの区間で圏外だったし、
沖縄の与那国島では、場所によっては台湾の携帯会社につながる始末。
あ、文句になってきた。方向修正。

高度情報化社会とは言われるものの、今回の震災で確認されたのは、
通信が途絶えると情報は伝わらないということ。
情報が伝わらなければ危険回避もままならないということ。
そして、伝えられた情報は鵜呑みにしないこと。特にショッキングな内容は。
情報は発信された瞬間から古くなっていくもの。常に状況は変化している。